無線関連コラム

「練馬まつり」イベントFMベリカード

昨年の10月16日、としまえんで開催された「練馬まつり」イベントFMの受信報告書に対してベリカードの返信があったので御紹介。

練馬FM20161016a

局名/練馬まつりイベントFM放送
周波数/88.5MHz
受信年月日/2016年10月16日(日)
受信時間/0748~0810JST
受信内容/
0748JST S/ON
0750JST 「練馬区歌」?
0752JST 「JOYZ-3AGFM、JOYZ-3AGFM,こちらは練馬まつりイベントFMです。
         周波数88.5MHz、出力5wで、としまえん会場内練馬祭り
         イベントFM特設スタジオよりお送りしています。
         只今試験電波を送信しています。
                   本日の放送はこのあと午前8時からお送りいたします。(繰り返    
         し)<女声>」
         途中から再び「練馬区歌」とID繰り返し。
0800JST ファンファーレ
        番組名/ウエーブデリバリーガンガンレディオオレンジタイム
        DJ/タカハシー、立山清美
        オープニングトーク
        天気のこと。
        メッセージ募集等。
        練馬まつりの概要など紹介トーク。

受信情況/SINPOSINPO-54444 F777の電界強度計で約40dB。昨年と同程度で入感。 
受信地/東京都杉並区
受信機/パイオニアF777
アンテナ/クリエイトログペリCLP5130-1(地上高8mH)を北ビーム

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JARL創立90周年記念アワード

昨年末、申請したJARL創立90周年記念アワードがJARLから送られてきたので御紹介。

J賞:9の異なるプリフィックスの日本国内の局との交信
「50MHz/CW/東京都」の特記入り。
JARL90アワードJa

A賞:9の異なる市・区の局との交信
「50MHz/CW/東京都」の特記入り。
JARL90アワードAa

R賞:9の異なる郡の局との交信
「50MHz/CW/QRP」の特記入り。
JARL90アワードRa

L賞:9の異なる都道府県の局との交信
「50MHz/CW/QRP」の特記入り。
JARL90アワードLa

90賞:90の異なる局との交信
「QRP」の特記入り。
JARL90アワード90a

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「見えるラジオ」の記憶

2014年3月31日。東京FMの文字多重放送「見えるラジオ」が終了した。
1994年のサービス開始から約20年。
東京FMのサイトコメントによると「近年のインターネット環境の浸透で、携帯電話などで様々な情報を見ることができるようになり、見えるラジオの役割を果たし終えるのが妥当と考える」ということらしい。
1994年の「見えるラジオ」開始当時、自分はこのシステムにかなりの関心を寄せていた。
ポータブル専用受信機が発売開始される前、この年の10月、晴海で開催された「エレクトロニクスショー」で「見えるラジオ」受信可能製品が出品されている事を知り、足繁く出かけたのを覚えている。
そこに展示されていたのがシャープのラジMD。
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正面の液晶に2行に渡って文字情報が表示されていた。
たとえばこんな感じに。

「見えるラジオ交通情報 第3チャンネルです」
「シャウエッセン・ミュージック・クリーク光の中へ提供は<日本ハム>です。」


ラジMDの写真を撮った際のニュースチャンネルにはこんな項目が流されていた。

「東北東方沖で巨大地震の可能性。北海道東方沖地震に連動」


なんだか意味深だ。
他にオンエア曲等がリアルタイムで表示。
とにかく、ラジオから文字情報が取得できるというのは当時の感覚からすると画期的でもあった。
早速、この時の聴取状況を受信報告書に記して東京FMに送った。
まだ当時は文字多重放送が記されたベリカードが用意されていなかったらしく、スタンプで「FM多重放送」と押された既存のカードが返信されて来た。
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「AMステレオ」と同じく、サービス開始時には受信機販売共々準備不足だった事が伺える。
しかし、以後はベリカード表面にも「見えるラジオ」をアピールするデザインに変更された。
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自分が「見えるラジオ」専用受信機を購入したのは1995年4月13日。機種はカシオのMR-1である。
発売早々、秋葉原の電気店では売切れてしまった。ダメもとで池袋の丸井に行ったら在庫があった。
たしか電通ギャラリーで開かれていたJFN主催「見えるラジオ展」を見学した帰りに購入した記憶がある。
「見えるラジオ展」ポストカードが残っていたので紹介する。
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1995年当時、電車の中でMR-1を操作していると、隣の乗客が「これが見えるラジオですか?」と声を掛けられた事もある位、話題になっていたものだ。
サービス開始時には興味深いチャンネルが存在した。
ニュース、交通情報、曲名案内という音声放送に連動したものや情報サービスだけではなく、「見えるラジオ」視聴者だけを対象にした手動掲示板みたいなコンテンツもあったのだ。
無論、「見えるラジオ」は放送局からの一方通行。
リスナーがレシーバーを通じてメッセージを送ることは不可能である。
当時は携帯メールなど存在しない。
しかし「見えるラジオ」スタッフはリスナーからのファックスによるレスポンスを呼び込み、間接的な双方向通信が可能な企画を立ち上げた。これはイレギュラーな企画だったが非常に面白くて結構自分も参加したものだ。
自分のファックスメッセージが「見えるラジオ」液晶から文字情報として流れてくる。そしてそのメッセージの反応も返ってくるのだ。
これはなかなかエキサイトした。アスキーアートのはしりみたいなのもあった。
詳細はもう忘れてしまったが、本格的な稼動以前の企画で実験的な遊び感覚要素も大きかったコンテンツだった。
だが、こういった「見えるラジオ」視聴者オンリーを対象とするマニアックな企画はいつしかなくなり、だんだんと保守的な企画へと落ち着いていくに従い、「見えるラジオ」の魅力は減衰していった記憶がある。

それはさておき、JFN系で始まった「見えるラジオ」は程なくNHKやJ-WAVEでも始まった。
J-WAVEでは文字多重放送を「アラジン」と称した。
その試験放送を1995年7月23日に受信。

<J-WAVEアラジンシケンデンパJOAV-FCM>
エフエムジャパン   試験電波
もじたじゅうほうそう 発射中


等と表示されていた記録が残っている。
J-WAVEも試験放送時はベリカードも既存のもので別途「アラジン」のスタンプが押されていた。
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この画期的な文字多重放送も1990年代後半に怒涛のごとく押し寄せたWebモバイル革命によってすっかり影の薄い存在になっていく。
1995年当時、心待ちつつ購入したカシオMR-1も、自分がパソコンを導入した1999年頃からまったく起動させることもなく箪笥の肥やしと化してしまった。
NHKは2007年3月末をもってFM文字多重放送を終了。
J-WAVEは2010年9月26日に「アラジン」を終了。
FM横浜も2012年12月31日にサービス終了。
そして東京FMとJFN系列でも、FM北海道の一部を除き、2014年3月31日をもって「見えるラジオ」のサービスを終了するという。
実はこの事実を知ったのは、3月31日当日。
たまたまネットで放送関係の調べものをしていて偶然見つけたのだ。
慌てて久しぶりにMR-1のスイッチを入れてみたがバックアップ用バッテリーも消耗してしまい、リセットせざるを得ず、記録した文字情報もすべて消えてしまっていた。
当時の受信機にはUSBなどのバックアップ記憶メモリーを接続出来る端子など存在せず、電池が切れた時点でデーターがなくなってしまう訳で、保存は難しいと覚悟していたが、実際消えてしまうと若干惜しい気もする。
リセット後、80.0MHz東京FMに合わせ、「見えるラジオ」を受信する。
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液晶からは

「見えるラジオは2014年3月31日をもってサービスを終了致します」
「長きに渡り、ご利用頂きありがとうございました。」


という表示が出る。
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Dscn8742a
コンテンツは

「1.番組情報、2.ニュース&天気、3.見えるラジオ終了のお知らせ」

の3つのみ。
今や「見えるラジオ」の何万倍もの情報がネットを通じて流れ込み、また発信も出来る時代となった。
しかしMR-1を久しぶりに起動させて思うのはこの「見えるラジオ」のささやかな情報量こそが、もしかすると人間には「適正」だったかもしれぬのではないかと。

2014年4月1日零時。
「ジェットストリーム」が始まると同時に「見えるラジオ」を更新してみても、そこには虚しく「受信出来ません」と表示されるだけ。
なぜかNHK-FMだけ未だに「FM多重」の表示がされるが、無論何も受信できない。理由は不明。
ここにMR-1はただのFMラジオと原始的電子手帳と化した。

なお、東京FMでは3月31日受信分までの文字多重放送受信報告に対し「見えるラジオ 記念ベリカードの頒布」を実施している。

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「波の数だけ抱きしめて」の記憶

518h1xcxnul__sl500_aa300_ 先日、「波の数だけ抱きしめて」という映画をDVDで観賞する。
この作品は1991年に公開されたミニFM局を題材にした青春グラフィティー作品。舞台設定は1982年の湘南地方。
「ホイチョイムービー3部作」の一つとして知る人ぞ知る映画だから敢えてあらすじや出演俳優などについては語る必要もないが、今尚、放送局や無線を題材とした映画の中ではこれを越える作品は知らない。
もっとも映画の主題が青春グラフィティーであり、セールスポイントもバブル華やかなりし時代の「トレンディー」なアウトドア若者向け作品として宣伝されていたので、公開当時はまったく関心がなかった。
まさかこれほどミニFMを「それらしく」詳細なギミックや小道具で演出していた映画とは思っていなかったので、この作品のBCL、アナログオーディオ、無線趣味的嗜みを知るのは公開から相当経ってからだった。
公開当時のポスターやDVDパッケージに描かれたイラストからはミニFMを起想させるイメージはまったくない。湘南サーフィン族の恋愛三昧浮世話にしか感じられぬのが残念。
但し、この映画を製作したフジテレビでは公開にあわせて1991年8月の真夜中、擬似的に「KIWI-FM」を放送。画面はビーチにラジオが置かれている様子を静止画で映していたと記憶しているが、音声は男性DJがFM風にトーク。合間にアメリカンポップスと映画のCMが入っていた。
当時エアチェックしていた音が残っていたので紹介する。
フジテレビ「波の数だけ抱きしめて」キャンペーン番組
1276037280_4 放送日時/1991年8月31日 内容/KIWI-FM模擬放送、ジングル、CM



このキャンペーン番組を録音していたにも拘わらず、映画館まで足を運ぶ気にはなれなかったのはやはり湘南とサーフィンという自分には縁もゆかりもないイメージが嫌だったのだろう。
結局、まともに全編通してじっくり観賞したのは、先日DVDを購入してから。
映画公開から実に22年である。
因みに当時はこんなタバコのCMもあったらしい。

それはさておき、この映画で描かれた架空のミニFM「KIWI」は、ウェキペディアによると1983年に湘南に実在した海岸美化を訴えるためのミニFMラジオ局「FM Banana」だそうである。
この頃はまだFMDXのアクティビティーは低く、「FM BANANA」の存在も知らなかったし、受信した記憶もログも残っていない。
現在は多数のコミュニティーFMが開設されている湘南地方だが、当時は影も形もなかった。
時々イベントでミニFMが併設される程度。当然、その近辺まで出かけなければ受信することも出来ない出力だ。
当時は携帯もネットもない。ミニFMだけが最先端なパーソナル情報発信媒体だった。
たとえ聴けるエリアが狭かったとしても唯一無二な貴重な媒体だったから「若者文化」アイテムとして描かれる対象にされるのは必然だったかもしれない。
そのような限定された媒体だったからこそ、工夫する面白さが残されていた。
それ故に映画の題材として企画にあがったのかも。

この映画で描かれるアナログ的無線オーディオギミック描写はそれを趣味とする者にとっては琴線に触れるシーンが多々ある。
オーディオ的にはアナログレコードプレーヤーのカートリッジに1円玉を置いたり、カセットテープの頭出しのために鉛筆で巻き戻したりと枚挙に暇がない。
小道具も当時のオーディオコンポを踏襲しており、時代考証にブレがない。
オープンリールは当時、オーディアマニアだった友人がエアチェックに使っていたのを思い出す。
無線的にも興味深いシーンがたくさんある。
ソニースカイセンサー5900で受信エリアをモニターするシーンはもとより、VWカブリオレ搭載のケンウッドチューナーがFM帯をオートスキャンし、徐に76.3MHzでスキャンが止まる状況もいい。秋葉原で中継器の部品を買い集めるシーンや中継器を設置する場所で電源を確保するため、自販機のコンセントを「拝借」したり、魚屋の電源を借りる際の交渉などなかなかリアルだ。
電波が通じると一挙に振れる中継器のVUメーターのシーンなどやはり「わかっている」人が作っているなと感心する。
また、時々、中継器の調子が悪くなって調整しに行く様子や、半田鏝で中継器を自作するのが完成品より一桁安いとか、その世界の趣味人でないと解らないシーンや語りが多々ある。
といってもちゃんとストーリーに自然に馴染んでいて殊更理工系的な横道に流れすぎていない演出もいい。
BGMに使われていた1980年代前半に流行ったユーミンやAORのミュージックシーンがシンクロし、当時、青春時代を過ごした同世代にとっては何とも言えぬアナログティックな懐かしさに浸れるのだ。

無線やラジオ局を舞台とした映画やテレビ番組は他にもいくつか観たことがあるが、自分が知る限り、この作品を越えるものはない。
どこか荒唐無稽だったり、必然性がなく無理やり取ってつけた話だったり、小道具や演出が不自然だったりと残念な作品が多い中で、これほどストーリーに自然に馴染んだ「ラジオ映画」は稀有だ。

「波の数だけ抱きしめて」製作前年の1990年、湘南地方で「相模湾アーバンリゾート・フェスティバル1990」(通称「サーフ’90」)イベントが開かれ、イベントFM「サーフ90FM」が開設された。
周波数もKIWI-FMと同じ76.3MHz。この周波数はしばしば当時のイベントFMで使用されており、1989年の横浜博覧会イベントFM局も76.3MHzだった。
「サーフ90FM」通称ジョーズFMは出力300w。江ノ島灯台から電波を出していた。自宅のある杉並区でも八木5エレアンテナで良好に受信できた。
当時の放送開始アナウンスがテープに残っていたので紹介する。
サーフ90FMベリカード
1990joozfmb_2

受信日/1990年4月4日
受信時間/1425JST
SINPO45554
サーフ90FMオープニングアナウンス

後に藤沢市のCFMレディオ湘南の前身になったFMが「サーフ90」という。
いずれにしろ、この映画公開以降にコミュニティーFMという制度が正式に動き出していく。
1992年に全国初のコミュニティーFMが函館に開設。
更に湘南地区にもこの映画に触発されたという元NHKキャスター木村太郎が1993年12月に関東初のCFM「葉山FM」(現湘南ビーチFM)を開局させた。
当時はまだ1w送信だったので自宅の杉並区阿佐ヶ谷では5エレ八木でも受信できなかった。仕方なく年が明けた1994年の元旦に逗子海岸まで赴いてエアチェックした。
その時のベリカードを紹介する。
葉山FMベリカード
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受信年月日/1994年1月1日
受信時間/1500~1720JST
SINPO/34353
夕闇迫る葉山マリーナまで行き、サテライトスタジオを覘いてみるとDJがこちらに手を振ったりしていた。
富士山と江ノ島をシルエットに聴く葉山FMはなかなか趣があった。
19940101bb 19940101aa
湘南にFMというのは、当時の最先端トレンドであって「波の数だけ抱きしめて」の体現化でもあったのだろう。
あの頃、新たなFMを目指す人々の合言葉は「More Music Less Talk」だった。
劇中でも暗に既存FM局に飽き飽きする女性の姿や、音楽中心のFMこそ新たな開拓の場と訴える広告代理店営業マンのシーンが描かれていたのは興味深い。
今や携帯、スマホ、ネットが拡充し、ミニFMなどは古のレトロ趣味と化してしまったが、逆に言えばネット、携帯等のデジタルギアがなくてもこれだけ楽しめた時代があったというのも記憶に留めておく必要があるかもしれない。

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東京スカイツリー展望台からの移動運用を考察する

さて、5月22日に開業予定の東京スカイツリー
3月22日からは個人向けチケット予約受付も始まった。
今更説明するまでもないが、高さ634mという自立鉄塔としては世界一の高さを誇る電波塔だ。
展望台も350mと450mに設置してあり、日本では未知の高さからの眺望が期待できる。
当然、アマチュア無線や特定小電力無線の移動運用候補地としても興味深い。
自分はこのような象徴的な高層建築物が完成する度にQRP移動運用にチャレンジしてきた。
その時の経験も踏まえ、東京スカイツリー展望台からの移動運用の実践の是非を解り得る範囲で考察してみようと思う。
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イベント施設としての移動運用環境
世間も注目する東京スカイツリー開業直後の展望台見学は、一種の大規模イベントでもある。
だから開業から7月10日までは入場チケットが完全予約制になった。
こうなると、オープンから暫くは飛行場や各種イベント会場と同じく、高いレベルのセキュリティーが求められ、手荷物検査や様々な物品持込禁止が実施される可能性もある。
1日の発行チケット数は個人が8000枚。+団体、ツアー客を含めれば1万数千人のオーダーだ。
入場に支障を来たす手荷物検査は現実的ではないが、果たしてどうなるか。

このような大規模イベント施設では様々な物品持ち込み禁止の場所も少なくない。
東京ディズニーリゾートの公式サイトにはペット、お弁当、アルコール、三脚などが持ち込み禁止と明記してある。
愛知万博ではお弁当やペットボトルに加え、無線機持ち込みが制限された。
恐らく様々な機器に影響を与えかねないという理由なのだろう(なぜか携帯電話だけはスルー。これに関しては後述する)。
他、野球、サッカー等のスポーツイベント、基地解放日等では必ず手荷物検査が実施される。
2011年の航空自衛隊入間基地祭や在日米軍横田基地祭でも実施された。
但し、これらのイベントでは無線機の持込は特に規制対象にはなっていない。
自分もハンディー機を持参したが特に何も言われず、基地内での交信等も問題なかった。
以前から特定小電力無線で連絡を取り合う光景は普通に見られたため、無線機使用はフリーというスタンスなのだろう。
果たして東京スカイツリー展望台の場合はどうなるのか?
特に電波塔という性格上、アマ無線機持ち込みに対してナーバスになる可能性は否定できない。

東京スカイツリー展望台移動運用の可能性
2012年3月末現在、東京スカイツリー展望台への持ち込み制限はアナウンスされていないようだが、開業近くになれば何らかの発表があるかもしれない。
まず、結論から言ってしまえば、管理者たる東京スカイツリーが展望台への持ち込み禁止項目の中にアマチュア無線機等が含まれてしまえば、事実上、移動運用は不可能となる。

一方、無線機持ち込みが規制されないと仮定した場合、従来の高層建築物に設置された有料、無料の展望台や展望ロビーにおける移動運用状況と比較し、どのように対処すべきか、自らの経験もふくめて考察してみた。

1.電波塔の場合
まず、スカイツリーと条件が似ている東京タワーを例にしてみる。
東京タワーの公式ホームページには、特に規制条件や手荷物検査などの項目はない。
今のところ、展望台でのアマチュア無線等を禁止する明確な制限明示はないと思われる。
ただ、現実問題として放送波送信を主に扱っている電波塔内で個人のアマチュアが任意に電波を出す事は歓迎されないだろうし、たとえ禁止になっていなくとも派手に無線機を扱うのは憚れる行為と思われる。
電波塔そのものではないが以前、お台場フジテレビの球形展望台で特定小電力トランシーバーを使用した際、係員に注意された経験があった。

もっとも、無線許可されているか否かに拘わらず、直上から強力な放送波が出ている電波塔での移動運用は条件が悪すぎる。
東京タワー直近の六本木ヒルズ屋上で移動運用にチャレンジしたことがあるがVHF,UHFの無線機は抑圧されて著しく送受信に苦労した経験があった。
また、同じく直近の浜松町貿易センタービル展望ロビーで特定小電力無線交信した際も、送受信が正常に行なわれなかったケースがあった。
そんな悪条件を裏付けるように、これまで東京タワーからの移動運用局と交信した記憶がないし、自分も東京タワーを移動運用地の候補として考えた事はなかった。
これがそのまま東京スカイツリーに当てはまるとは思わないが、憂慮される条件のひとつだ。

そこで5月末の時点でスカイツリーからの放送波送信はどうなっているか調べてみた。
スケジュールによると

東京スカイツリーから本放送予定の放送事業者
○FM放送
NHK東京FMとJ-WAVE→2012年4月下旬本放送開始予定

○携帯端末向けマルチメディア放送(VHF-HIGH帯)

「NOTTV」→2012年4月1日より本放送開始予定
○タクシー業務無線→2012年3月より運用を順次開始し5月からの本運用開始予定

○在京テレビ局→2013年1月本放送開始予定

つまり、展望台開業時にはすでにFM放送波とモバキャス、タクシー無線波は常時出ている状況だが、テレビは電波をだしていないと。
少なくともスカイツリーからの移動運用が可能ならばテレビ本放送が始まる前に実施したほうが有利かもしれない。

2.一般の高層ビル施設の場合
電波送信施設以外の高層建築展望ロビーでの移動運用環境を考えてみる。
著明な首都圏展望ロビーとして

新宿区都庁舎(高さ243m、第一本庁舎45階南北に展望ロビー、料金無料)
サンシャイン60(高さ251m60階に展望ロビー、256mにスカイデッキ、料金620円)
六本木ヒルズ(高さ238m、52階に展望室、屋上にスカイデッキ、料金1500円)
横浜ランドマークタワー(高さ273m、69階にスカイガーデン、料金1000円)


等が上げられる。
それぞれの公式サイトを観る限りにおいてはアマチュア無線移動運用自体に絞って禁止を掲げるような記載は存在しない。
但し、実際に移動運用を行なった際の経験として、新宿都庁舎の展望フロアでは長時間の無線は遠慮してほしい旨の注意書きは存在するし、実際に係員から注意された経験もある。更に2012年現在は手荷物検査も実施しているという。
一方、サンシャイン60、六本木ヒルズ、横浜ランドマークタワーにおいて移動運用を行なった経験では特に問題は発生しなかった。
詳細はサンシャイン60移動運用記(2008年)六本木ヒルズ移動運用記(2008年)を参照のこと。
基本的に危険物持込や場所を占有したり他の人への迷惑行為に抵触しない限り、展望ロビーでの移動運用は可能と考えてよいだろう。
特にフリーエリアのある無料展望ロビーは立ち入り自由なので、建物の入場に制限がない限り、問題はない。
恵比寿ガーデンプレイス移動運用記(2012年)参照。
但し、特に明記されていなくとも警備の人から「無線はNG」と注意されることも少なくない。
特に2001年のニューヨーク国際貿易センタービルテロ事件直後はどの展望ロビーも気軽に無線運用が出来る雰囲気ではなかった。
ただ近年は注意されるケースはかなり減ったのも事実。
新宿NSビルや新宿野村ビル等の西新宿各無料展望フロアは2005年頃(移動運用記参照)は警備員に注意されたが、現在はまったく問題なく移動運用出来る。
詳細は新宿住友ビル移動運用記(2008年) 、新宿センタービル移動運用記(2009年) 、 新宿野村ビル移動運用記(2011年)参照のこと。
但し、スタンスは、時勢や管理担当者によって常に変化するので直近の情報収集が不可欠だ。
2006年頃、埼玉県大宮のソニックシティービルの展望ロビーに移動運用した時は、無線のみならずアベック同士のお喋りにまで規制をかけていたガードマンがいた。
これは極端な例だが、その日の担当者や状況によって対応がまったく異なる場合もあるから、タイミングが左右する事も想定しておこう。
展望台で規制されている物品として典型的なのは、カメラの三脚やペットであろう。
メジャーな展望ロビーでは必ず明記されていた。
かつて六本木ヒルズではエレベーターに乗る前に三脚はロッカーに保管を指示されていた。
しかし、2012年現在は屋上以外では使用可能になったようだし、サンシャイン60やランドマークタワーの展望ロビーでの三脚使用もOKらしい。
東京スカイツリーオープンを控え、展望台集客の競争が激しくなり、各ビルも規制緩和の方向に流れているようだ。
とはいえ他の客の眺望を妨げる占有にあたるケースに抵触する事に変わりはない。
当然、大きな無線アンテナも占有にあたるので気をつけるべきだ。

携帯電話は規制されない?
ところで、同じ電波を発する携帯電話の制限を設けている展望施設は殆どない。
展望台に入る前に手荷物検査で携帯電話を取り上げたり、電源を切らせるケースは稀有だ。
六本木ヒルズの屋上解放も携帯だけは持ち込み可能になっている。
携帯電話とQRP無線機との出力の差を比較してみよう。

無線機と携帯電話の送信出力の比較
特定小電力トランシーバー             10mW
QRPアマ無線ハンディー機     概ね100mW~1W
351MHz帯デジタル簡易無線      概ね1W~5W
携帯電話                概ね250mW~1W
PHS                   10mW~100mW

これを見ても解るように実際、特定小電力無線の出力は携帯電話の出力より弱い訳で、携帯を許可する一方で無線機だけをすべて規制対象にするのは管理者の無知が問われる事例である。
東京スカイツリーでも、おそらく携帯持ち込みは規制されることはないだろう。
もし、携帯電話型のQRPアマチュア無線機が存在すればどうなるのか興味深いところだ。
Dscn1005b
常識的なマナーを守る
結論として無線禁止が明確に意思表示されていなければ、東京スカイツリー展望台での移動運用は可能と考えてよかろう。
注意すべきは常識的なマナーであって、これはもう無線云々以前の問題。
「その他の迷惑行為」に入る範疇のことはしてはならない。
スペースを占有するアンテナを設置したり、大声で交信したり、他者に不快な印象を与える言動や行動をすれば、自ずと移動運用に対する世間の目はネガティブになってしまう。
その結果、無線が禁止になってしまう事例も少なくない。
基本的に高層ビル等の展望ロビーでの移動運用は極力目立たず、1w程度のQRPハンディーかポータブル機を鞄の中に潜ませ、隅っこのほうでイアフォーンを使用し、大人しく運用するのが最低限の嗜みであろう。
また誰かに話し掛けられたら愛想良く対応し、警備員から注意を受ければ素直に従うのがベターな行動だ。

東京スカイツリー開業まであと2ヶ月。
無線の移動運用が可能である事を祈りたい。

追記
2015年11月現在、展望台への無線機持込は禁止が明記されているようである。

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横浜FM『ライドオンオートバックス』の記憶

1203a_2 1985年12月20日、首都圏2局目の民放FM、FM横浜が開局した。
久しくFM東京1局独占状態が続いていたところに待望の新局が出現したのだ。
周波数は84.7MHz、出力5Kw。
東京でも屋内アンテナで十分受信可能であった。
当時、FMはまだまだ「ニューメディア」といわれる分野に属し、音楽媒体としては重要な存在を占めていた。
エアチェックという言葉が生きており、FM誌も健在。カセットテープデッキでFMから好みの楽曲を録音する事が当時の若者の普遍的通過儀礼であった時代。
この年までNHKとFM東京だけの選択肢しか得られなかった首都圏に待望のあらたな放送局が誕生する訳だから、その期待感は当時のFMファンにとって絶大であった。
そのFM横浜はFM東京とサービスエリアが重複するので番組は必然的にすべて自主制作番組。
開局当時、盛んに謳われた「右へ数センチで、夏です」というキャッチフレーズはアナログFMチューナーの目盛りを右にチューニングせよということ。
80.0MHzのFM東京、82.5MHzのNHK東京よりも高い周波数に「夏」が存在している事を暗に伝えたかったのだろう。
「モア ミュージック レスト トーク」という主張も新鮮だった。
もっとも開局してみればトーク番組も多く存在していて音楽一辺倒という訳ではなかったが、新たな首都圏民放FMの新鮮さは十分に保っていた。
自分も試験放送当時からFM横浜エアチェックに執心し、カセットテープでジングル集や番組のオープニングタイトル集等を作ったりしたものだった。
勿論、受信報告書を発送してベリカードを貰い、ステッカー、タイムテーブルなどを入手した。
Fm860817Yfm01  
また、開局当初はSONYからFM横浜専用ラジオICF-E5という製品も発売され、3種類全て購入し、今でも所有している。
Dscn9350a Dscn9353a Dscn9354a Dscn9355a   
Dscn9356a FM多局化黎明期であった1985年。
やがて、1988年のJ-WAVE等、首都圏民放FM開局ラッシュに繋がって行くのである。

それはさておき、開局当時のFM横浜にちょっと気になった小番組があった。
毎週土曜午前11時30分から25分間流されていたドライバー向け番組『ライドオンオートバックス』である。
放送期間は1986年4月から1990年3月まで4年間。
つまり、開局から最初の改編期に始まったプログラムだ。
トークは山田栄子。
高畑勲演出アニメ『赤毛のアン』のアン役でお馴染みの声優さんだ。
オープニング、CM、エンディング含め全て彼女がボイスを担当。
番組全体が山田演ずる横浜在住20代前半女性のドライビングトーク風で構成されていた。運転席から見た横浜旅情という雰囲気だ。
語りの間にアメリカンポップスが3~4曲流される。
山田栄子がこの番組に採用されたのはたぶん出身地が横浜市だったからであろう。
スポンサーはカー用品店オートバックス神奈川グループ。
オーソドックスなドライバー向け番組ではあったが山田栄子の『赤毛のアン』エッセンスがいっぱいで聴いているとグリーンゲイブルズが脳裏に浮かんで来て心地よかった。
アンがそのまま横浜に移住して馬車の代りに自動車で街を廻っているイメージ。
この番組を構成した人(エンディングアナによるとフジワラコウキ)ももしかしてそんなイメージを抱いていたのかもしれない。
自分の手元には約4年間の放送期間のうち僅かではあるが何回分のエアチェック録音が残っている。
このまま死蔵させておくのも忍びないので、この機会にテープからパソコンへデータ化した一部の音声の内、オープニングトークとCMを紹介してみたい。
なお、アップした音声はアナログカセットテープが音源なので音質も悪く、音割れしている箇所もあるので注意。
あくまでサンプル程度のものとして聴取していただきたい。
また、音が大きいので音量に注意のこと。

「ライドオンオートバックス」オープニング集
手元に残っている録音は4年間の放送の内、断片的に9回分のみしかない。
番組開始時の1986年秋(日時不明)が1回。
1989年2月から7月にかけて計5回。
番組終了間際の1990年2~3月が計3回。
1987年、1988年はまったくエアチェックしておらず音声は残っていないため、当時のオープニングは窺い知れない。
手元に残る録音で確認できるオープニングは3種類。
1、1986年秋バージョン
 
番組初期のオープニング
まず汽笛と車の起動音に続いて山田の語り。
「車は私達のタイムマシーン。
今日はどこ行こうかなあ?海の見える公園?それともタンカーの停泊する港?
どこまでも続く道は夢溢れる二人の舞台。
そして合言葉はライドオンオートバックス。
この番組はオートバックス神奈川グループ8店鋪の提供でお送りします」
2、1989年初夏バージョン

波とベルの音に続いて山田の語り。BGMはレゲエ調。
「時間という世界の中で私は不思議の国のアリスに変わる。
フロントガラスに未来を、ルームミラーには通り過ぎていく思い出を写しながら今日はどんな出会いがあるだろう。
不思議の国へのドライブはいつもの合言葉で始まる。ライドオンオートバックス」
3、1990年春バージョン

車が通り過ぎる走行音に続いて山田の語り。
「過去はバックミラーのずっと彼方に。未来はフロントガラスのずっと先に。
現在、過去、未来。私は時を泳ぐ。
自由に、気侭に、美しく、元気に。
そしていつもの合言葉はライドオンオートバックス。
この番組はオートバックス東戸塚店、246江田店、浜見平店他、オートバックス神奈川グループ12店鋪の提供でお送りします」
オートバックス各店舗紹介は回によって異なっているようだ。

「ライドオンオートバックス」CMシリーズ
番組中のCMも全て山田栄子の独り語りで構成されている。
残っているテープの中では4バージョン確認できる。
1、1986年秋CMバージョン

オートバックスカーオーディオキャンペーンの紹介。
2、1989年5月バージョン

オートバックス神奈川グループモータースポーツクラブの紹介。
3、1989年7月バージョン

山田栄子が一人2役でA子B子を演じ、オートバックス神奈川12店舗を紹介。
4、1990年3月バージョン

ドライブ中の様々なハプニングを盛り込んだ想い出語りでオートバックス神奈川各店舗を紹介。

すべてが「山田栄子ワールド」一色の番組だった。
かといって声優番組のような閉鎖された雰囲気もなくあくまでドライバー向けというスタンスもよかった。
「知る人ぞ知る」アンファンだけが密かに「山田節」を楽しめる、そんな感じも好きだった。
これだけ思い入れのある番組だったのだが、実は殆ど聞き逃しているのも事実。
生活も不規則で必ずしもFM横浜にチューニングしていた訳でもなかったからいつも「気が付いたら終っていた」状態だった。土曜の正午前という時間帯もチェックするには辛い。
だからテープにダビングしてあるといっても、わずか9回分。
4年間に放送された「アンの語り」殆どを知らないのだ。
アニメ作品などであれば後日DVD化され観賞する事も可能だが、ラジオ番組の場合はそうもいかぬ。
ネットで検索してみても殆どヒットしない。
昔のFM雑誌の番組表を引っぱり出してタイトルだけで内容を想像する以外にない。
もっとも、当時リアルタイムで聴いた僅かの放送分しか残っていないからこそ貴重なのであって、仮に今、何らかの方法で全放送分聴けたとしても果して喜びに繋がるのかは解らない。
あくまで空想の中に留めておくのもよいかも。

1990年春、首都圏FM多局化に伴いFM横浜も番組編成大幅変更を実施、この番組も姿を消してしまった。
1980年代後半、横浜のローカルFM局土曜お昼前だけに流された伝説の「赤毛のアン」の語り。
今でも横浜の何処かでその「アン」が車窓の向こうに佇んでいるかもしれない。
そんな妄想もまた楽し。

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QSLカードデザインの仕事

サンケイ広伸社A4maniaxからのご依頼で作画したQSLカードイラスト3種の紹介。

先日から公式サイトで販売が始まったので、JH1EAFブログでも告知。
最近は「ハムログ」などのソフトでパソコンを使い、自分で作成発行する人が多くなったが、既存のデザインカードを利用する人もまだまだいる。
ただ、既存カードはシンプルで地味なものが多く、面白みや個性に欠ける。印象にも残らないから今ひとつという無線家も多い。
そんなユーザーのために、イラストレーターや漫画家がカードをデザインし、個性豊かなQSLカードを提供するという企画をサンケイ広伸社A4maniax様が発案した。
縁あって担当者の方からQSLカード作成の依頼をいただいた。
趣味と実益を兼ねた仕事だったのでスムーズに進んだ。
イラスト2枚はペインターで処理した水彩画風、もう1枚はフォトショップで処理したアニメ塗り風で作画。
モチーフは、数年前ロケハンした小湊鉄道だ。
描き下ろしイラスト3種
QSL01色 QSL02色 QSL03.jpg

QSLカードサンプル(コールサインはダミー)
abyukyo_01a.jpg abyukyo_02a.jpg abyukyo_03a.jpg

NO.1販売サイト(100枚オーダー)
NO.2販売サイト(100枚オーダー)
NO.3販売サイト(100枚オーダー)
他に500枚、1000枚単位での販売あり。
詳しい販売内容についてはA4maniax公式サイトを参照。
よろしくの程を。

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『ある通信兵のおはなし』を読む

先日、第2次世界大戦中の電信局について徒然なるままにネットで検索していたところ、『ある通信兵のおはなし』というサイトに辿り着く。
ウィキペディアで旧海軍の電波傍受施設があった埼玉の大和田通信所を調べていると、その関連項目に何故か『ある通信兵のおはなし』がリンクされていた。
そこから最初に辿り着くページは「B29のコールサイン」というエピソード。
1945年8月。場所は日本内地。旧陸軍のある極秘通信部隊らしきチームがテニアンに進出したアメリカのB29原爆投下部隊から発せられる交信を逐一傍受するという内容。
語っているのはこの部隊に所属していたという機上通信担当下士官。恐らくこの手記の著者teruteru氏のことであろう。
原爆投下、ソ連参戦、連合軍からの降伏勧告、ポズタム宣言受諾、終戦の玉音放送、マッカーサーが厚木に降り立つまでの連合国との交渉等が現場の通信兵の目線から生々しくリアルに綴られている。
これまでこのような大戦中のそれも終戦間際の旧日本軍における電波傍受、交信記録を扱った手記はほとんど知らなかったので興味深く読み込んでしまった。
そもそもこのような軍事通信を扱った部隊の記録は極秘文章にあたるだろうから、終戦時に殆ど完全に焼却処分され何も残っていないはず。だから当時このような任務に従事していた当事者の手記が、もし本物であったならば真に貴重な記録だろう。

この『ある通信兵のおはなし』は全130話。メールマガジンとして平成14年から17年にかけて配信されたらしい。
今でも全ストーリーがバックナンバーで読める。

さて、この手記の主人公が所属していた部隊は帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊という。
『ある通信兵のおはなし』の「著者の紹介」ページに記された内容は以下の通り。
以下抜粋。

本名:三好照雄
昭和2年生まれ
和歌山県出身。

無線学校卒業と同時に少年飛行兵を志願。

昭和18年12月初旬 少年飛行兵(通信)志願書提出
同年12月下旬 歩兵第61連隊において一次試験(身体検査)
昭和19年1月10日 同連隊において二次試験 (筆記試験、口頭試問)
同年1月25日 甲種合格通知受領
同年2月1日 第一航空軍鈴鹿教育隊入隊(少飛18期 乙種幹部候補生機上通信要員) 搭乗員訓練は北伊勢飛行場でした。
同年9月1日 第一航空軍帥555部隊配属
同年9月10日 第一航空軍司令部直轄第101通信隊に転属(単に通信隊と公表していましたが、実際は索敵、諜報部隊。東京郊外の青梅にありました)
同年9月20日 索敵、哨戒機の機上通信担当として、実戦任務に就く
昭和20年10月1日 除隊、復員

最終階級は陸軍軍曹

また帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊に関してはこのように説明されている。
これもサイトから抜粋。

第一航空軍司令部直轄第101通信隊は東京・青梅にあり、外部には単に通信隊と公表されていましたが、実際は、本土防空のための作戦立案・実行に必要な情報収集を任務とする索敵、諜報部隊でした。

私が在籍した昭和19年当時、部隊は隊長・須原中佐以下約33名で編成され、通信担当、操縦担当、和訳担当、整備担当、暗号担当、気象担当という構成でした。

当時の部隊には、隊長・須原中佐以下個性的な精鋭が集結しており、個々の実力を正当に評価する雰囲気がありました。その代わり、「能無し」には居座る余地がないという完全実力主義が徹底されていました。

通信担当は通信室長以下10名。
うち、わたしの任務であった、機上で通信を担当する「機上通信担当」は待機要員を含めて3名で、共に航空機に乗る操縦担当者も相棒の竹中曹長を含めて3名でした。
(中略)
なお、私たちの部隊は、米軍の通信を頻繁に妨害したことから、GHQの手が周る怖れがあるとの情報により、司令部の記録から抹消されました。
自衛隊防衛研究所戦史資料室にも資料は残されていません。
従って、終戦時、出身地の県(世話課、現福祉部)に対して、私の復員通知は送付されていませんでした。(入隊記録はありますが、除隊記録がないのです、書類上では行方不明扱い)
因みに、東京田無の陸軍特殊情報部(略称・特情)は、終戦前日の14日に一切の資料を焼却し、8月15日の夕刻、全員その姿を消し、地下に潜ったそうです。

以上抜粋。
つまり、この部隊は史実には一切存在していないということになる。まさに幻の部隊だった訳だ。
さて、この『ある通信兵のおはなし』によると当部隊は1945年5月下旬、青梅で米軍による被災を受け壊滅(第101話「基地の壊滅」参照)、後に一部の隊員は東京杉並区荻窪にある学童疎開のため休校中だった小学校内にある陸軍の無線施設に転出し、任務を続行たらしい。B29原爆投下部隊の交信傍受はすべて荻窪に移転後のエピソードとして述べられている。
またここに記されている旧陸軍中央特殊情報部も田無からの移転後、同じく東京杉並にあった浴風会という福祉施設の地下に傍受施設を設けたという。
つまり、この著者が所属した部隊共々、杉並に移ったということになる。
因みに昭和20年8月当時、杉並の久我山には最新鋭の防空レーダー、ウルツブルクを装備した五式十五糎高射砲高射砲陣地が存在していた。
また、隣接する中野には諜報活動を育成する陸軍中野学校もあり帝国陸軍の通信傍受索敵防空関連の精鋭が集中していたことになる。

さて、自分がこの『ある通信兵のおはなし』を読み始めた箇所は、前途したとおり最初からではなくB29原爆投下部隊の交信を傍受する辺りから。
終戦までの記述は非常にリアリティがあり、構成もしっかりしている。更に無線交信の描写も真に細かく描かれていて従軍手記として稀に見る面白さ。
久々に無線に絡めた興味深いノンフィクションに巡り会えたという気持ちになった。
しかしこれは全130話の内、108話辺りからラストまでの22話分のエピソード。
すべてを読んでみないことにはこの「幻の部隊」の全貌は解らない。
そこで期待に胸を弾ませて改めて最初から読むことにした。

ところが読み進めていくうちに首を傾げたくなる記述が多い事に気が付く。。
この手記は時系列的に並んでいるのではなくランダムにエピソードが紹介されている。
かなり最初のほうで主人公が戦後、復員した後の出来事が封入されたりしているのでかなり戸惑う。
『ある通信兵のおはなし』であるからして当然大半は無線通信に関わる話なのだが、その中にこんなのがあった。
第9話「小野田さん」というエピソード。
著者が戦後、復員して通信系の会社で働いていた1970年代前半の出来事らしい。
同僚がアマチュア無線の3アマ(当時は電信級と呼称したはずだが)でCWを練習したいと著者に相談し、その同僚の家でCWを練習する一環で著者が知人宅からCQを出したそうだ。この辺りの記述も何だか不自然なのだが、とりあえず続きの部分を抜粋してみる。

「ある日、CQ CQ CQ DE JAB3DE (CQは探呼符号。DEはこちらは。JAB3DEは当方のコ-ルサイン)を繰りかえし発信していたところ、図らずもルバング島の1ハムから、応答がありました。
音は小さく、おまけに、応答の次に生文でいっていることがサッパリわからず、英文で送ってくれと此方も片言で、要請しました。
字引き片手に翻訳すると、「日本兵が山に隠れていて、時々村へ降りてきて食料をあさっている」との情報でした。
早速、その事を県福祉課へ連絡したところ、政府も既にその事は知っており、現地の政府とも連携して捜索しているとのことでした。」

まずコールサイン。「当方のコールサイン」がJAB3DE。このようなプリフィックスが三つもあるアマチュア無線のコールサインはありえないはず。もしかすると誤植なのか?それともありえないコールサインにすることで伏字を兼ねているのだろうか。
それに交信周波数帯も記述がないのはなぜか。
そして「ルバング島の1ハムから応答」とある。
コールサインから場所を推定したのだろうか?しかし比較的小さい島であるルバング島を最初のコールバックで知るのは困難。後の交信で確認したという事かもしれないが、通常こういう場合は「DU(フィリピンのプリフィックス)から応答あり」とか表現するのでは?
更にはアマチュア無線のCW初交信でいきなり「生文」(現地語?)でこんな具体的な「ニュース」を送ってくるものだろうか?
これは緊急通信なのか?
ルバング島の小野田さんが発見された年は確か1974年。もうその頃にはSSBも普及しているはずなので敢えてCWでこのようなやり取りをする必要はないと思われる。それともこれも電信の訓練としての位置づけなのか?
いずれにせよ無線に関する細かい描写はあっても、何か肝心なところが抜けているのだ。
アマチュア無線家が記述する交信記録とはとても思えない。
それに、この件を「県福祉課」がすでに「政府が連携して動いている」ということを知っているとか、なんだか奇妙な話。この状況であればすでにテレビや新聞で報道されているのではないか?
このエピソードの〆にはこんな記述もあった。

「結果的に無傷で小野田さんを収容でき、当事の新聞に大きく掲載されましたが、私達のアマグル-プについて触れられていたのは「現地と交信し情報提供をした様です」の一行だけでした。」

これが事実かどうかは解らない。
当時、自分はまだアマチュア無線にQRVしていなかったのでこの頃のことは知らないが少なくとも「小野田さん救出劇」にアマ無線が関与したニュースは記憶にない。
ネットで検索してみてもヒットしない。
客観的に考えれば1974年の時点で、アマ無線のCWを使ってこのようなやり取りをする合理性があるとは思えぬ。確かにこの当時はネットもなく、国際電話も高かったはずだが、少なくとも電信ではなく、電話(SSB)でQSO出来たろう。それにマスコミを通して情報は流れていたはずだから、釈然としない。

とにかく、読み進めていくとこのような不自然な記述は枚挙にいとまがない。
たとえば、1945年の時点で著者が機上通信兵として乗ったとする陸軍哨戒機の行動があまりにも荒唐無稽すぎる。
Q&Aによると搭乗機種は「川崎製・二式複座戦闘機「屠龍」を偵察用に特別に換装した」タイプだという。特別仕様とはいえ運動性に劣る双発戦闘機が単発戦闘機のグラマンを次々撃ち落す記述がたくさんある。
いくら熟練パイロットが操縦していたとしても基本性能からしてありそうな話ではない。本当に事実であれば否応なしに米軍の記録に残っているだろう。
また空母艦載機がB29を護衛していたとか(別個に本土空襲に来る事はあっても直衛のような密接連携した活動はなかったはず。因みにB29は米陸軍航空隊。護衛したのは同じ陸軍の硫黄島配属P-51)、目のまえで不時着したB29を救出する潜水艦をしばらく上空で眺めていたりだとか、当時の状況下どうにも現実とは考えにくい描写が至る所にある。事実誤認なケースはあったとしても、そんな描写ばかりが続くので、読み進めていくうちに真実味が失せていく。
また、エピソードにはいつも決まったパターンがある。
つまり、まず無理解で無能な旧軍の悪しき象徴のような上官や憲兵が登場し、「先進的で科学的」思考を重んずる主人公を徹底的に罵倒。しかし主人公はひるまず正論を通す。主人公ぶん殴られる。しかし最後には「理解ある司令官や隊長」が寸でところで駆けつけ、主人公を助け、「無能」上官、憲兵を懲罰にかける。
全エピソードの中に一つか二つであれば信憑性も高いが、いつも「水戸黄門」のようなパターン。
読み進めていくうちにこの手記なるものは「真実」というよりも著者の「願望」を描いたものに過ぎないのではないかと思うようになった。
通信描写についても熟考すると不自然な部分に気が付く。
たとえば直接、敵のCWを聞きながら口頭で同時和訳するシーンが出てくるが実際問題として可能なのか?。
敵兵の声色をオシロスコープで調べ相手に成済ます描写があるが、そんな相手の声紋を記録出来る精巧な機器が当時、日本で作ることが出来たのか?
B29の通信傍受で位置を割り出すチャート(米軍機の座標数値表?)を作ったとか、当時旧軍の所持していた機器では到底不可能な描写が多い。
また、敵の通信に割り込んでかく乱するなどは、可能性としてはありうるとしても発信源を敵に晒すような事は自殺行為。軍事常識的には論外だろう。
まだまだある。
第87話「抗日工作員の検挙」というエピソード。
一部抜粋する。

「深夜。午前2時ごろ。
通信室当直の多田上等兵が「不審な交信を傍受したので来ていただきたい」と、起こしにきました。
気候のよい4月の半ばでもあり、ぐっすりと寝込んでいましたので、私は直ぐに起きることができませんでした。
階級は下でも、娑婆での経験がものをいう通信士仲間の間では「俺、貴様」の間柄ですから、眠い眼をコスリながら通信室のスピ-カ-に受信信号を出して聞いたところ、上等兵が言うとおり、確かに我が軍の通信とは違います。
乱数表による暗号のようですが、暗号数字の組み方に規則性がなく、また、英文の生文が電文の中に含まれています。
海軍でもこのような暗号は使ってなかったと思います。

「コ-ルサインを聞いたか?」
上等兵
「始めに【CQ CQ CQ (探呼符号)QTH(経度、緯度)K(どうぞ)】だけで、軍関係でもなく、米軍でも使用していない呼び出し方法でした。その後、すぐに応答があり、交信が始まりました。
発信側が「経度・緯度」を伝えることにより、自分の位置を相手に伝えるような無線通信は、船舶が遭難したとき以外は使うことはないと思われますので、この点から考えても不審な無線通信であると思いました」因みに、上等兵は娑婆の無線局で3年のメシを食っている現役入隊兵です。
軍隊の通信学校では【Q符号】を訓練しませんので、もし、軍通信しか経験がなければ、なんの不審感も抱かなかったことでしょう。
私「よし分かった。【QTH】の次の数字(経度、緯度の数値)を、記憶しているか?」と尋ねますと、確かな返事が返ってきました。
通信士は記憶受信の訓練をしていますので、先ず間違いはないでしょう。
平岡少尉作成の座標数値をプロットした地図を広げ、位置を求めますと、杉並区高円寺の通称早稲田通りの周辺であることが分かりました」


この著者は余程杉並が好きとみえる。
因みに早稲田通り沿い高円寺近くというロケーションは、実は自分の住んでいる所に極々近い。
なんだか変な気分になる。
それはさておき、「抗日工作員」なるものが実際存在するとしても、こんなあからさまに自分の位置を敵地の真っ只中で明瞭にするような通信を行なうだろうか?傍受するほうがピンポイントで発信地点を突き止められる位細かな座標を送信していたのか?「抗日工作員」はこの時代にGPSでも持っていたのかな??
このエピソードはなおもつづく。

注)経度では、赤道上における1度の距離は700kmにもなります。従って、〇度◎分☆秒まで、正確な数値でないと、実際の地点との距離の誤差が大きくなるのです。

不審な通信は経度の「分」まで表現していましたので、誤差は当然あるでしょうが概ねの位置を推測することが可能でした。


「通信室長と、和訳担当兵の徳本一等兵(技術担当)をすぐ起こしてきてくれ」

これまでの経緯を総合的に判断すると、

・発信源は東京杉並区高円寺町の周辺。誤差を勘案しても現在のJR・当時の省線の中央線高円寺駅から半径30kmの範囲内である。
・交信状況から勘案すると、抗日工作員(スパイ)の地下無線局である。
・電文の内容を憶測すれば、本土空襲の戦果・特に軍事施設に対するものを確認し定期的に米軍へ通報しているものと思われる。
・アマチュア無線局は、昭和16年に送信機を一斉に封印しているので、アマチュア局ではない。
・受信側からの発信感度が低いことから勘案すると、受信地は太平洋に展開している米軍の艦艇か、若しくは、硫黄島である。

以上の推測事項を通信室長に報告し、直ちに司令部の当直士官に通報されました。

技術担当兵
「周波数は8,000Khz帯で、昼間帯は電波の伝播が悪いので、深夜の比較的感度がよい時間帯を選んでいます。波形は特に不審な点はありませんが、送信電鍵は横振りを使っているものと思われます。受信側の波形は我が軍のものとは違うと考えます」

非常にリアリティーのあるように読める描写なのだが、誤差30kmというと、高円寺を中心にすると東京23区内がすっぽり入ってしまう訳で発信源特定というにはあまりにも大雑把過ぎる。
結局、高円寺を発信源に持ち出す根拠はあまりないように思うのだが。
あるいは独自の探査方法で割り出したのか?「平岡少尉作成の座標数値をプロットした地図」がなんとなくそれを指しているようにも思えるが。
このエピソードは更に続き、方向探査車3台を動員して次のエピソードへと続く。
フィクションとしてなら面白い展開だが、「史実」としてはどうにも説得力に欠ける。


もう、不自然描写は挙げていったらキリがないのでやめておく。
全て読破検証したわけではないので断定は出来ぬが、この『ある通信兵のおはなし』は「架空戦記」の類として読むべきフィクションと判断したほうがよい。
これらエピソードが全てフィクションであるとは言い切れないし、こちらの軍事通信知識が足りぬだけで意外に事実である部分もないとは言えまい。
たとえば、「電信をモニターしている際、短点が短すぎて、長点が長すぎることでこれは縦振り電鍵ではなくてバグキーを使って送信された信号と解釈出来るから、これはアメリカ軍通信局の信号である」と断定する描写は差ほど不自然さは感じない。
あと第128話「マニラ会談の交信」のエピソードで会談中の交信に妨害電波が被って、その発信源がウラジオストックと推測されるあたりの描写もありそうな話だ。
但し、これらは他に出典があるのかもしれない。

『ある通信兵のおはなし』を記した著者は恐らく実際、通信兵として従軍した経験はあるのだろう。経験しなければ解らないテクニカルな描写も多々ある。しかし7~8割方は空想で占められていると言っても過言ではあるまい。
あと史実に絡めているので当時の軍事常識や通信関係に疎かったりする者が読むと100%事実であると誤認してしまう恐れがある。
著者の本意は何処にあるのか解らぬが。

ただし、本エピソードに取り上げられていた旧陸軍中央特殊情報部は実在していたらしい。堀栄三著『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 』 (文春文庫)にも記述があるそうなので間違いないだろう。またその特殊情報部が傍受したB29通信記録のコールサインから通常とは異なる飛行隊を割り出していたというエピソードも事実らしい。
さらに海軍の大和田通信所も同様の通信傍受を担っていた。因みにこの大和田通信所では気象情報も担当していたというから、恐らく『ある通信兵のおはなし』の主人公が所属する帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊のモデルにしたと思われる。
だからウィキペディアにリンクされていたのだろう。

『ある通信兵のおはなし』は荒唐無稽な箇所を修正すれば、なかなか面白い無線フィクション小説になっただろう。特に後半のB29原爆部隊通信傍受から終戦までの件は比較的リアルなので映画にしても面白い。
気になるのはやはり、部隊が後半本拠地とした東京杉並区荻窪にある学童疎開のため休校中だった小学校だ。著者はQ&Aで「学校名は忘れた」とはぐらかしているが是非とも思い出してもらいたいものである。
実家に近いのでもしかすると自分が通っていたJR中央線沿線の母校かも知れぬ。母校の近くにはかつて気象庁の気象研究所があった。戦時中は確か陸軍が管轄していたと思う。
このエピソードからすると秘密諜報部隊が駐屯していてもおかしくあるまい。
帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊は架空の存在と推定出来そうだが、この隊のモデルとなった海軍大和田通信所は実際にこんな雰囲気であったのかも知れない。
因みに戦後、進駐軍に接収された後の写真がかつて在籍したアメリカ軍人のサイトに数多く残されている。

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