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『ある通信兵のおはなし』を読む

先日、第2次世界大戦中の電信局について徒然なるままにネットで検索していたところ、『ある通信兵のおはなし』というサイトに辿り着く。
ウィキペディアで旧海軍の電波傍受施設があった埼玉の大和田通信所を調べていると、その関連項目に何故か『ある通信兵のおはなし』がリンクされていた。
そこから最初に辿り着くページは「B29のコールサイン」というエピソード。
1945年8月。場所は日本内地。旧陸軍のある極秘通信部隊らしきチームがテニアンに進出したアメリカのB29原爆投下部隊から発せられる交信を逐一傍受するという内容。
語っているのはこの部隊に所属していたという機上通信担当下士官。恐らくこの手記の著者teruteru氏のことであろう。
原爆投下、ソ連参戦、連合軍からの降伏勧告、ポズタム宣言受諾、終戦の玉音放送、マッカーサーが厚木に降り立つまでの連合国との交渉等が現場の通信兵の目線から生々しくリアルに綴られている。
これまでこのような大戦中のそれも終戦間際の旧日本軍における電波傍受、交信記録を扱った手記はほとんど知らなかったので興味深く読み込んでしまった。
そもそもこのような軍事通信を扱った部隊の記録は極秘文章にあたるだろうから、終戦時に殆ど完全に焼却処分され何も残っていないはず。だから当時このような任務に従事していた当事者の手記が、もし本物であったならば真に貴重な記録だろう。

この『ある通信兵のおはなし』は全130話。メールマガジンとして平成14年から17年にかけて配信されたらしい。
今でも全ストーリーがバックナンバーで読める。

さて、この手記の主人公が所属していた部隊は帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊という。
『ある通信兵のおはなし』の「著者の紹介」ページに記された内容は以下の通り。
以下抜粋。

本名:三好照雄
昭和2年生まれ
和歌山県出身。

無線学校卒業と同時に少年飛行兵を志願。

昭和18年12月初旬 少年飛行兵(通信)志願書提出
同年12月下旬 歩兵第61連隊において一次試験(身体検査)
昭和19年1月10日 同連隊において二次試験 (筆記試験、口頭試問)
同年1月25日 甲種合格通知受領
同年2月1日 第一航空軍鈴鹿教育隊入隊(少飛18期 乙種幹部候補生機上通信要員) 搭乗員訓練は北伊勢飛行場でした。
同年9月1日 第一航空軍帥555部隊配属
同年9月10日 第一航空軍司令部直轄第101通信隊に転属(単に通信隊と公表していましたが、実際は索敵、諜報部隊。東京郊外の青梅にありました)
同年9月20日 索敵、哨戒機の機上通信担当として、実戦任務に就く
昭和20年10月1日 除隊、復員

最終階級は陸軍軍曹

また帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊に関してはこのように説明されている。
これもサイトから抜粋。

第一航空軍司令部直轄第101通信隊は東京・青梅にあり、外部には単に通信隊と公表されていましたが、実際は、本土防空のための作戦立案・実行に必要な情報収集を任務とする索敵、諜報部隊でした。

私が在籍した昭和19年当時、部隊は隊長・須原中佐以下約33名で編成され、通信担当、操縦担当、和訳担当、整備担当、暗号担当、気象担当という構成でした。

当時の部隊には、隊長・須原中佐以下個性的な精鋭が集結しており、個々の実力を正当に評価する雰囲気がありました。その代わり、「能無し」には居座る余地がないという完全実力主義が徹底されていました。

通信担当は通信室長以下10名。
うち、わたしの任務であった、機上で通信を担当する「機上通信担当」は待機要員を含めて3名で、共に航空機に乗る操縦担当者も相棒の竹中曹長を含めて3名でした。
(中略)
なお、私たちの部隊は、米軍の通信を頻繁に妨害したことから、GHQの手が周る怖れがあるとの情報により、司令部の記録から抹消されました。
自衛隊防衛研究所戦史資料室にも資料は残されていません。
従って、終戦時、出身地の県(世話課、現福祉部)に対して、私の復員通知は送付されていませんでした。(入隊記録はありますが、除隊記録がないのです、書類上では行方不明扱い)
因みに、東京田無の陸軍特殊情報部(略称・特情)は、終戦前日の14日に一切の資料を焼却し、8月15日の夕刻、全員その姿を消し、地下に潜ったそうです。

以上抜粋。
つまり、この部隊は史実には一切存在していないということになる。まさに幻の部隊だった訳だ。
さて、この『ある通信兵のおはなし』によると当部隊は1945年5月下旬、青梅で米軍による被災を受け壊滅(第101話「基地の壊滅」参照)、後に一部の隊員は東京杉並区荻窪にある学童疎開のため休校中だった小学校内にある陸軍の無線施設に転出し、任務を続行たらしい。B29原爆投下部隊の交信傍受はすべて荻窪に移転後のエピソードとして述べられている。
またここに記されている旧陸軍中央特殊情報部も田無からの移転後、同じく東京杉並にあった浴風会という福祉施設の地下に傍受施設を設けたという。
つまり、この著者が所属した部隊共々、杉並に移ったということになる。
因みに昭和20年8月当時、杉並の久我山には最新鋭の防空レーダー、ウルツブルクを装備した五式十五糎高射砲高射砲陣地が存在していた。
また、隣接する中野には諜報活動を育成する陸軍中野学校もあり帝国陸軍の通信傍受索敵防空関連の精鋭が集中していたことになる。

さて、自分がこの『ある通信兵のおはなし』を読み始めた箇所は、前途したとおり最初からではなくB29原爆投下部隊の交信を傍受する辺りから。
終戦までの記述は非常にリアリティがあり、構成もしっかりしている。更に無線交信の描写も真に細かく描かれていて従軍手記として稀に見る面白さ。
久々に無線に絡めた興味深いノンフィクションに巡り会えたという気持ちになった。
しかしこれは全130話の内、108話辺りからラストまでの22話分のエピソード。
すべてを読んでみないことにはこの「幻の部隊」の全貌は解らない。
そこで期待に胸を弾ませて改めて最初から読むことにした。

ところが読み進めていくうちに首を傾げたくなる記述が多い事に気が付く。。
この手記は時系列的に並んでいるのではなくランダムにエピソードが紹介されている。
かなり最初のほうで主人公が戦後、復員した後の出来事が封入されたりしているのでかなり戸惑う。
『ある通信兵のおはなし』であるからして当然大半は無線通信に関わる話なのだが、その中にこんなのがあった。
第9話「小野田さん」というエピソード。
著者が戦後、復員して通信系の会社で働いていた1970年代前半の出来事らしい。
同僚がアマチュア無線の3アマ(当時は電信級と呼称したはずだが)でCWを練習したいと著者に相談し、その同僚の家でCWを練習する一環で著者が知人宅からCQを出したそうだ。この辺りの記述も何だか不自然なのだが、とりあえず続きの部分を抜粋してみる。

「ある日、CQ CQ CQ DE JAB3DE (CQは探呼符号。DEはこちらは。JAB3DEは当方のコ-ルサイン)を繰りかえし発信していたところ、図らずもルバング島の1ハムから、応答がありました。
音は小さく、おまけに、応答の次に生文でいっていることがサッパリわからず、英文で送ってくれと此方も片言で、要請しました。
字引き片手に翻訳すると、「日本兵が山に隠れていて、時々村へ降りてきて食料をあさっている」との情報でした。
早速、その事を県福祉課へ連絡したところ、政府も既にその事は知っており、現地の政府とも連携して捜索しているとのことでした。」

まずコールサイン。「当方のコールサイン」がJAB3DE。このようなプリフィックスが三つもあるアマチュア無線のコールサインはありえないはず。もしかすると誤植なのか?それともありえないコールサインにすることで伏字を兼ねているのだろうか。
それに交信周波数帯も記述がないのはなぜか。
そして「ルバング島の1ハムから応答」とある。
コールサインから場所を推定したのだろうか?しかし比較的小さい島であるルバング島を最初のコールバックで知るのは困難。後の交信で確認したという事かもしれないが、通常こういう場合は「DU(フィリピンのプリフィックス)から応答あり」とか表現するのでは?
更にはアマチュア無線のCW初交信でいきなり「生文」(現地語?)でこんな具体的な「ニュース」を送ってくるものだろうか?
これは緊急通信なのか?
ルバング島の小野田さんが発見された年は確か1974年。もうその頃にはSSBも普及しているはずなので敢えてCWでこのようなやり取りをする必要はないと思われる。それともこれも電信の訓練としての位置づけなのか?
いずれにせよ無線に関する細かい描写はあっても、何か肝心なところが抜けているのだ。
アマチュア無線家が記述する交信記録とはとても思えない。
それに、この件を「県福祉課」がすでに「政府が連携して動いている」ということを知っているとか、なんだか奇妙な話。この状況であればすでにテレビや新聞で報道されているのではないか?
このエピソードの〆にはこんな記述もあった。

「結果的に無傷で小野田さんを収容でき、当事の新聞に大きく掲載されましたが、私達のアマグル-プについて触れられていたのは「現地と交信し情報提供をした様です」の一行だけでした。」

これが事実かどうかは解らない。
当時、自分はまだアマチュア無線にQRVしていなかったのでこの頃のことは知らないが少なくとも「小野田さん救出劇」にアマ無線が関与したニュースは記憶にない。
ネットで検索してみてもヒットしない。
客観的に考えれば1974年の時点で、アマ無線のCWを使ってこのようなやり取りをする合理性があるとは思えぬ。確かにこの当時はネットもなく、国際電話も高かったはずだが、少なくとも電信ではなく、電話(SSB)でQSO出来たろう。それにマスコミを通して情報は流れていたはずだから、釈然としない。

とにかく、読み進めていくとこのような不自然な記述は枚挙にいとまがない。
たとえば、1945年の時点で著者が機上通信兵として乗ったとする陸軍哨戒機の行動があまりにも荒唐無稽すぎる。
Q&Aによると搭乗機種は「川崎製・二式複座戦闘機「屠龍」を偵察用に特別に換装した」タイプだという。特別仕様とはいえ運動性に劣る双発戦闘機が単発戦闘機のグラマンを次々撃ち落す記述がたくさんある。
いくら熟練パイロットが操縦していたとしても基本性能からしてありそうな話ではない。本当に事実であれば否応なしに米軍の記録に残っているだろう。
また空母艦載機がB29を護衛していたとか(別個に本土空襲に来る事はあっても直衛のような密接連携した活動はなかったはず。因みにB29は米陸軍航空隊。護衛したのは同じ陸軍の硫黄島配属P-51)、目のまえで不時着したB29を救出する潜水艦をしばらく上空で眺めていたりだとか、当時の状況下どうにも現実とは考えにくい描写が至る所にある。事実誤認なケースはあったとしても、そんな描写ばかりが続くので、読み進めていくうちに真実味が失せていく。
また、エピソードにはいつも決まったパターンがある。
つまり、まず無理解で無能な旧軍の悪しき象徴のような上官や憲兵が登場し、「先進的で科学的」思考を重んずる主人公を徹底的に罵倒。しかし主人公はひるまず正論を通す。主人公ぶん殴られる。しかし最後には「理解ある司令官や隊長」が寸でところで駆けつけ、主人公を助け、「無能」上官、憲兵を懲罰にかける。
全エピソードの中に一つか二つであれば信憑性も高いが、いつも「水戸黄門」のようなパターン。
読み進めていくうちにこの手記なるものは「真実」というよりも著者の「願望」を描いたものに過ぎないのではないかと思うようになった。
通信描写についても熟考すると不自然な部分に気が付く。
たとえば直接、敵のCWを聞きながら口頭で同時和訳するシーンが出てくるが実際問題として可能なのか?。
敵兵の声色をオシロスコープで調べ相手に成済ます描写があるが、そんな相手の声紋を記録出来る精巧な機器が当時、日本で作ることが出来たのか?
B29の通信傍受で位置を割り出すチャート(米軍機の座標数値表?)を作ったとか、当時旧軍の所持していた機器では到底不可能な描写が多い。
また、敵の通信に割り込んでかく乱するなどは、可能性としてはありうるとしても発信源を敵に晒すような事は自殺行為。軍事常識的には論外だろう。
まだまだある。
第87話「抗日工作員の検挙」というエピソード。
一部抜粋する。

「深夜。午前2時ごろ。
通信室当直の多田上等兵が「不審な交信を傍受したので来ていただきたい」と、起こしにきました。
気候のよい4月の半ばでもあり、ぐっすりと寝込んでいましたので、私は直ぐに起きることができませんでした。
階級は下でも、娑婆での経験がものをいう通信士仲間の間では「俺、貴様」の間柄ですから、眠い眼をコスリながら通信室のスピ-カ-に受信信号を出して聞いたところ、上等兵が言うとおり、確かに我が軍の通信とは違います。
乱数表による暗号のようですが、暗号数字の組み方に規則性がなく、また、英文の生文が電文の中に含まれています。
海軍でもこのような暗号は使ってなかったと思います。

「コ-ルサインを聞いたか?」
上等兵
「始めに【CQ CQ CQ (探呼符号)QTH(経度、緯度)K(どうぞ)】だけで、軍関係でもなく、米軍でも使用していない呼び出し方法でした。その後、すぐに応答があり、交信が始まりました。
発信側が「経度・緯度」を伝えることにより、自分の位置を相手に伝えるような無線通信は、船舶が遭難したとき以外は使うことはないと思われますので、この点から考えても不審な無線通信であると思いました」因みに、上等兵は娑婆の無線局で3年のメシを食っている現役入隊兵です。
軍隊の通信学校では【Q符号】を訓練しませんので、もし、軍通信しか経験がなければ、なんの不審感も抱かなかったことでしょう。
私「よし分かった。【QTH】の次の数字(経度、緯度の数値)を、記憶しているか?」と尋ねますと、確かな返事が返ってきました。
通信士は記憶受信の訓練をしていますので、先ず間違いはないでしょう。
平岡少尉作成の座標数値をプロットした地図を広げ、位置を求めますと、杉並区高円寺の通称早稲田通りの周辺であることが分かりました」


この著者は余程杉並が好きとみえる。
因みに早稲田通り沿い高円寺近くというロケーションは、実は自分の住んでいる所に極々近い。
なんだか変な気分になる。
それはさておき、「抗日工作員」なるものが実際存在するとしても、こんなあからさまに自分の位置を敵地の真っ只中で明瞭にするような通信を行なうだろうか?傍受するほうがピンポイントで発信地点を突き止められる位細かな座標を送信していたのか?「抗日工作員」はこの時代にGPSでも持っていたのかな??
このエピソードはなおもつづく。

注)経度では、赤道上における1度の距離は700kmにもなります。従って、〇度◎分☆秒まで、正確な数値でないと、実際の地点との距離の誤差が大きくなるのです。

不審な通信は経度の「分」まで表現していましたので、誤差は当然あるでしょうが概ねの位置を推測することが可能でした。


「通信室長と、和訳担当兵の徳本一等兵(技術担当)をすぐ起こしてきてくれ」

これまでの経緯を総合的に判断すると、

・発信源は東京杉並区高円寺町の周辺。誤差を勘案しても現在のJR・当時の省線の中央線高円寺駅から半径30kmの範囲内である。
・交信状況から勘案すると、抗日工作員(スパイ)の地下無線局である。
・電文の内容を憶測すれば、本土空襲の戦果・特に軍事施設に対するものを確認し定期的に米軍へ通報しているものと思われる。
・アマチュア無線局は、昭和16年に送信機を一斉に封印しているので、アマチュア局ではない。
・受信側からの発信感度が低いことから勘案すると、受信地は太平洋に展開している米軍の艦艇か、若しくは、硫黄島である。

以上の推測事項を通信室長に報告し、直ちに司令部の当直士官に通報されました。

技術担当兵
「周波数は8,000Khz帯で、昼間帯は電波の伝播が悪いので、深夜の比較的感度がよい時間帯を選んでいます。波形は特に不審な点はありませんが、送信電鍵は横振りを使っているものと思われます。受信側の波形は我が軍のものとは違うと考えます」

非常にリアリティーのあるように読める描写なのだが、誤差30kmというと、高円寺を中心にすると東京23区内がすっぽり入ってしまう訳で発信源特定というにはあまりにも大雑把過ぎる。
結局、高円寺を発信源に持ち出す根拠はあまりないように思うのだが。
あるいは独自の探査方法で割り出したのか?「平岡少尉作成の座標数値をプロットした地図」がなんとなくそれを指しているようにも思えるが。
このエピソードは更に続き、方向探査車3台を動員して次のエピソードへと続く。
フィクションとしてなら面白い展開だが、「史実」としてはどうにも説得力に欠ける。


もう、不自然描写は挙げていったらキリがないのでやめておく。
全て読破検証したわけではないので断定は出来ぬが、この『ある通信兵のおはなし』は「架空戦記」の類として読むべきフィクションと判断したほうがよい。
これらエピソードが全てフィクションであるとは言い切れないし、こちらの軍事通信知識が足りぬだけで意外に事実である部分もないとは言えまい。
たとえば、「電信をモニターしている際、短点が短すぎて、長点が長すぎることでこれは縦振り電鍵ではなくてバグキーを使って送信された信号と解釈出来るから、これはアメリカ軍通信局の信号である」と断定する描写は差ほど不自然さは感じない。
あと第128話「マニラ会談の交信」のエピソードで会談中の交信に妨害電波が被って、その発信源がウラジオストックと推測されるあたりの描写もありそうな話だ。
但し、これらは他に出典があるのかもしれない。

『ある通信兵のおはなし』を記した著者は恐らく実際、通信兵として従軍した経験はあるのだろう。経験しなければ解らないテクニカルな描写も多々ある。しかし7~8割方は空想で占められていると言っても過言ではあるまい。
あと史実に絡めているので当時の軍事常識や通信関係に疎かったりする者が読むと100%事実であると誤認してしまう恐れがある。
著者の本意は何処にあるのか解らぬが。

ただし、本エピソードに取り上げられていた旧陸軍中央特殊情報部は実在していたらしい。堀栄三著『大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 』 (文春文庫)にも記述があるそうなので間違いないだろう。またその特殊情報部が傍受したB29通信記録のコールサインから通常とは異なる飛行隊を割り出していたというエピソードも事実らしい。
さらに海軍の大和田通信所も同様の通信傍受を担っていた。因みにこの大和田通信所では気象情報も担当していたというから、恐らく『ある通信兵のおはなし』の主人公が所属する帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊のモデルにしたと思われる。
だからウィキペディアにリンクされていたのだろう。

『ある通信兵のおはなし』は荒唐無稽な箇所を修正すれば、なかなか面白い無線フィクション小説になっただろう。特に後半のB29原爆部隊通信傍受から終戦までの件は比較的リアルなので映画にしても面白い。
気になるのはやはり、部隊が後半本拠地とした東京杉並区荻窪にある学童疎開のため休校中だった小学校だ。著者はQ&Aで「学校名は忘れた」とはぐらかしているが是非とも思い出してもらいたいものである。
実家に近いのでもしかすると自分が通っていたJR中央線沿線の母校かも知れぬ。母校の近くにはかつて気象庁の気象研究所があった。戦時中は確か陸軍が管轄していたと思う。
このエピソードからすると秘密諜報部隊が駐屯していてもおかしくあるまい。
帝国陸軍第1航空軍司令部直属第101通信隊は架空の存在と推定出来そうだが、この隊のモデルとなった海軍大和田通信所は実際にこんな雰囲気であったのかも知れない。
因みに戦後、進駐軍に接収された後の写真がかつて在籍したアメリカ軍人のサイトに数多く残されている。

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